souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

人権啓発研修で感じたこと

先日受講した人権啓発研修で、衝撃的なハナシがあった。
こんなことを書くのは無論気が重いし、不快に思う人も多いだろうが、このものすごいショックを書きとめておこうと思う。つまり、差別用語としての穢多を考察する、ということなのだ。


今やIME辞書では一発変換してくれないのだ(余談ながら、こういう「臭いモノには蓋」的態度も善し悪しだ)が、「穢多」と書いて「エタ」と読む。つまり穢れが多いという意味である。
では「穢れ」とは何か。
遡れば、既に古事記において「穢れ=死」の記述が見られる。「ケ」とは「気」・「生命力」のこと。「カレ」とは「枯れる」の「カレ」で「離れる」という意味。すなわち、生命力が離れ、死に近づくことがケガレ。講師の見解はこうだ。


狩猟に基盤をおく縄文人たちの不安定な生活から、農耕による安定的な生活への革命を起こした弥生人が、その後の安定維持のために「社会システムの安全弁」を必要とした。その中で生まれてきた概念だ、というのだ。


獣たちを屠殺*1し、皮を剥ぐ行為を言わばタブー視することで、つまりこちら側から注意深く排除しあちら側に置くことでこちら側の安定を図る。そのためには、屠殺を生業とする被差別集団を永続的に保持しなければならない。それが「穢れ多き人たち」であり、彼らと一度交わればその穢れが伝播する、とキャンペーンを張った。その最初の記述が古事記だ、というのだ。


そう。
この問題は諸説あって、講師の見解は飛躍があるだろうが、たとえ事実がどうあれ「そうかもしれない」と思えるインパクトだけで身の毛もよだつ話だろ。


そして恐ろしいのは、その起源の古さ、だけではない。
この差別は、中世においては殺生を嫌う仏教と血を嫌う神道等宗教的衣を纏いながら、江戸時代においては身分制度として、近代に至っても「新平民」だとか「部落出身」という名で、脈々と、執拗に、再生産されてきた。 せいぜい江戸時代ぐらいからと思っていた俺は、甘かった。


この根深さ、グロテスクさを「禍々しい」と言わずに、何と言おう。誤解を恐れず言えば、ユダヤ人を弾圧した狂人のことを糾弾する前に、全ての日本人が想起すべき問題だ。背負わなければならない十字架だ。
サイレントマジョリティとして見て見ぬフリは、許されない。いじめやハラスメントの問題といっしょだ。


日本の社会を構成する一人として肝に銘じるために、敢えてここに記しておきたい。

*1:この「屠殺」って漢字も変換してくれないんだな。