souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

茂木健一郎のつぶやきから

人生の問題の一つは、実はゴールがはっきりしていないということだ。大抵の局面において、はっきりとした目的が定まっているわけではない。定まっていたとしても、それは遠かったり、余りにも大きかったりする。
ゴールが達成されると、脳内で報酬系が活動し、強化学習が起こる。大切なメカニズムだが、一方で、それほど小刻みに、明確にゴールが定められているケースは少ない。むしろ、ゴールがない状況でどのように学習が進むかが問題である。
明確なゴールがないケースが多いからこそ、行為のプロセスそのものが報酬となる「フロー」(チクセントミハイ)*1が大切になる。ある目標が達成されるから嬉しいのではない。むしろ、目標が明確ではないとしても、その行為に没入する時間そのものが報酬なのである。
ニーチェの舞踏(Tanzen)の概念が生命哲学としてすぐれているのは、それが、目的論から自由であることだ。舞踏においては、目的は自明のことではない。それは、行為する時間そのものに喜びを感じる「フロー」の理論付けであり、フローを哲学的深淵へと接続する。
目的意識がはっきりとしすぎている人、あるいは、人生というものは目的があってそれに向かうことだと考える人と話していて息苦しさを感じるのは、感情的反応というだけでなく、そもそも生きるということはそんなことではないという認識の問題なのだろう。
行為する時間そのものに没入し、無償にこそ報いを見いだすこと。「目的」から自由になること。「フロー」の喜び。舞踏の実践。そのような内的感覚をつかんでいる人が、もっとも強靱であり、結果としてリヴァイアサンたり得る。

やっぱり「我と時間を忘れて没頭する」ことができる人は、しあわせなんだな。


それと。
上昇志向のカタマリみたいな人や、お金を稼ぐことに血道をあげている人に、嘔吐にも似た不快感を感じる理由が、判った気がする。それと、勉強だけしてる人や、やたら資格ばっかり持っている人。
逆に、そういう「手段を目的化して生きられる」ことって、悩みも少なく、楽なんだろうな。
俺はマッピラごめんだけど。

 

*1:こんな著作が有名らしい:フロー体験 喜びの現象学