souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

平和の祈りをこめて

昔、長崎県出身の婆ちゃんからさんざ「いいところなのよ」と聞かされ、未だにポッペンがタカラモノなsouxouquitとしては、長崎って素晴らしい地だという憧れがあった。鎖国時代唯一の異国との接点。んもう、それだけで憧れを禁じ得ない。
しかし同時に、鹿児島以上に「地の果て」的イメージもあって、行くことを半ば諦めていた時期も長かった。
それが劇的に変わったのは1年前に広島に行って原爆ドームを目の当たりにしてから。
漠然とした「行きたい」が「絶対行ってやる」(というか「行かなきゃ」)に変わった瞬間であった。


朝。7時過ぎにホテルを飛び出した。
平和公園には真っ先に行かねばならない。
朝の真っ白な心のままで。


有名なモニュメントに圧倒される。
原爆の脅威を示す上方を指した右手。平和の願いを示す水平に伸ばした左手。
めい想=折り曲げた右足と、救済=立った左足。
そして犠牲者の冥福を祈る軽く閉じられた目。
この雄大な作品を作らずにはいられなかった衝動が、リアリティをもって迫ってくる。


早くも長崎に来てよかったとしみじみ感じて始めていたが、反対に原爆資料館に向かう頃には、ほとんど泣き出さんばかりになっていた。
年甲斐もなくかけたサングラスがなければ、大変なことになっていたに違いない。

止まった時計を観、溶けて原型を留めないガラス瓶を観、ドキュメンタリーフィルムを観る頃になって、俺は気分が悪くなって、吐き気がしてきた。


モノから意味を剥ぎ取ると嘔吐しか残らない。そう言ったのはサルトルだったろうか。戦争というものの徹底的な無意味さは、こうも気持ち悪く、おぞましく、禍々しいものか。


俺の心をかろうじて繋ぎとめていたのは、全国から寄せられた千羽鶴の存在だった。



理不尽で圧倒的な「ちから」の前で、賢明な人間は、きっと祈ることしか赦されない。
涙を流すことも、きっと違う。現に涙は零れなかった。
残ったのは、心にポッカリ空いた虚無感だけ。


山王神社で、有名な一本足鳥居を見上げた頃には、涙雨が降ってきた。
これを残そうって決めた人間の叡智が、僅かな希望として俺の胸に迫ってくる。
愚かで、そして賢い人類。
心を閉ざすことも、限りなく共有することもできる人類。


福済寺の優しい観音様を眺める頃には、漸く気持ちも落ち着いてきて、このドでかい亀に乗ってるって、どうよ? と突っ込みながら歩く余裕もでてきた。


快復した心に、しとしと降るそぼろ雨のように染みてきたのは、実に、この平和な世の中で生きる、己のしあわせであった。
あぁ。長崎にやってきて、良かった。
今日感じたようなことを感じずに怠惰に生きそして淡々と死を迎えるのでなくて、本当に良かった。



眼鏡橋のほとりを歩く。見事な建築造形に花を添えるランタンたち。
普段よりウキウキしているのだろう。地元の人も足を止めて観ているようだった。


日が傾いて、暮れゆくグラバー園大浦天主堂を散策した。
一雨降った後大気が冷え、凛とした空気が宵闇と共に迫る長崎で、港を見下ろす丘の上からの景色は、また例えようもなく美しかった。


四海楼(あるいは「ちゃんぽん博物館」)を洒落で眺め、漸く長い一日を締めくくることができた。


ランタンフェスティバルの準備で試験点灯していた中華街は、賑やかさと晴やかさに溢れていた。
こんな当たり前の喧騒に立ち会うことだけでも、何か心あたたまるような錯覚を感じてしまう。
長崎の夜は、こうして更けていったのだった。