souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

世界のカタログ化

年末年始の休みの間に、所持している全てのCDのリッピングを完了した。
計1万曲、時間にして800時間程の俺の音楽コレクションが、今やiTunes上でアーティスト順に整然と並んでいる。整理したのが「音楽」と言う「コンテンツ」と「メタデータ」が渾然一体と入れ子構造を形成する特異な芸術ジャンル*1なのも多分に作用しているが、この「俺の人生総決算的一覧」を俯瞰していると中々感慨深いモノがある。


実は、リッピングの完了とともに想起されたのは、所謂世界のカタログ化というコトバである。


1889年のパリ万博*2の例を繙くまでもなく、“世界のカタログ化”への野望は人々の根源的欲求であった。否、“世界のカタログ化”すなわち「コレクションの可視化」は、人類の悲願だったと言ってよい。
考えても見よ。
これが世界ですこれが全てですと現前に並べられること以上のリアリティは、極く普通の意味では殆ど存在しないではないか。
つまり、iTunesに並べられたオノレの音楽コレクションを眺めながら俺は、何がしかの達成感とカタルシスに浸っていたのだ大袈裟に言えば。


しかし同時に、「自分の人生の過程において出会った楽曲の(殆ど)全て」を目前に突きつけられて、まったく別の感慨がフツフツと沸いてきたのも事実である。何も俺だけじゃなく、余程鈍い人間でなければ「その先」への思いがおそらく沸き起こることだろうと思う。
俺の場合は、延長の方向性と、止揚的方向性の2つであった。
つまり、これっぽっちのコレクションが俺の全てである筈がない、という実に幼稚で感傷的な思い、そしてその思いに突き動かされて帝国の城壁を無限に拡げようとする虚しい足掻きへの同情。これが前者。
いま一つは、「このコレクション見てくれ」的表層的自慢ミセビラカシ欲求と根源的に異なる、自分を全て曝けることによって成立する深いレベルでのコミュニケーション欲求「何処かに俺と感覚を共有できる奴が居て、そいつと一晩飲み明かしたいぜ」的欲求を喚起させる何か。これが後者。
俺は、この全く異なる2つのベクトルの齎す可能性に対して思いを馳せるに至った。そういうことである。*3


これはある意味当たり前である。
歴史的に見ても、「カタログ化が完了した後の世界」は無節操な歴史的引用と機械生産による無秩序なものづくりに一層拍車がかかり、コンシューマの大量消費を前提とした「近代化」へ猪突猛進したではないか。カタログ上の「これ」と指差せば簡単に消費できる世界が齎したのは、醜いマス消費型社会。今や、成熟した個々人の価値の多様化についていけないマス消費型社会の限界が叫ばれているのと、そっくり呼応している。*4


それにしても、100年以上前の出来事にまだまだ学ぶべき真理が潜んでいる。こんな極く当たり前のことに気づき、年始早々少々凹んだ。
人生まだまだ勉強ベンキョウ。


*1:「特定アーティストの特定曲」はそれ自体消費したいコンテンツそのものだが、同時に「『特定アーティストの特定曲』を好きな存在である自分」を補足的に説明するメタデータとしても機能する、という意味において「入れ子構造」と言える。広義に捉えればすべての芸術ジャンルはこの入れ子構造を孕んでいるが、そのカジュアルさ(音楽嫌いな人間はそうはいない)とキメ細やかさ(大抵の人は好みの曲がそれなりの数に上るだろう)に於いて他の芸術ジャンルの比ではない。

*2:フランス革命100周年記念であり、エッフェル塔が建設されたことで知られる万博。また、「あらゆる国の産物の展示」を企図し世界を分類し陳列する“世界のカタログ化”が端的に行われた最初の万博、と言われている。
この時代は、新大陸が発見されると共にアジア諸国との交易が本格化し、それまでのヨーロッパには知られていなかった様々な生物種・物産・工芸品・芸術作品が市場にどっと横溢し、博物学が隆盛を極めた。このような背景に後押しされた「すべてをカタログに登記することによって世界そのものを博物学辞典にしてしまいたい誘惑」、これこそが“世界のカタログ化”の本質と言えよう。

*3:ついでに言えば、この2つは一般的最大公約数的真理を孕んでいると思う。できれば100人ぐらいの人に訊いてみたい。
自分の人生が総覧できたとして、その時あなたは何を思うのか。

*4:まあ、このこと自体「歴史的引用ではないか」というご批判はご尤もだが、俺としては節操を欠いてはいないつもりでありますので、「無節操な歴史的引用」ではないと思っております。はい。