souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

想像力と感性の欠如はどうにもならない

俺の大好きなブログ僕の知ってる日本のロックの最新のエントリーライヴを体感することの中で、YouTubeの功罪について触れている:

YOUTUBEってのは、罪作りなメディアでね。あるミュージシャンの、本人なら見せたくないようなものまでどんどんアップされてるわなあ。
今日も、クラプトンバンドのヨーロッパツアーの映像がもうアップされてて、僕はもう数曲、このバンドのライヴを見てしもた。こういう状態が今後あたりまえになったら、ライヴ観戦の心理状態もやや変わるかもしれんなあと思ったんよなあ。予習段階で、大枠がわかってしまうライヴに行くわけやから、進行上のスリルとか、メンバーの組み合わせ上の新鮮さは、若干減るからね。
ライヴってのはその日その場所で一回だけのもんで、それはつまり僕ら観客とアーティストの邂逅が、その日にしかないことからの化学反応なんでね。よく、こんだけ事前に見えてしまったら行くことないとか、TVでまたやるしなあとかいうバカがいるけど、それは根本を間違ってるから。そして、その根本まちがいしてるヤツラが、日本にはものすごく多いんよなあ。

技術の進歩やサービスの決め細やかさによって、サービスが安価に(しばしばそれはYouTubeのように無料ですらある)しかも手軽にアーティストの作品を享受できる状況を作り出すということは、その「楽さ」ゆえに感受性の低いオーディエンスの大量発生と、元々低い感受性をますます奪うことに繋がりかねない諸刃の剣だ、という主張。
それはそのとおりだろう。


でも、と俺は敢えて反論する。


そういう「感受性の低い連中」はいずれ駄目になるんだから、「便利な世の中」も所詮、その流れを「加速」する程度ではないか、と。
で、どうせならだ。そういう「何れ救いようのない連中」にかかずりあうことはエネルギーの無駄なので軽くスルーしてだ。この「便利な世の中」から雑草のように逞しく立ち上がってくる「可能性」に目を向ける方が健全なんじゃないか、と。
そこで気にかかったのが、CNETの記事変わるYouTube映像、ポストプロダクションを意識し始めたクリエーターたちである。
この記事の中で紹介されている「YouTube上の作品群」*1は、まず、単純に面白い! それのみならず、「作品」にインスパイアされた「別の作者による別の作品」が「ビデオレター」のように「返信され」たり、その編集ツールが爆発的に売れたり、もはや「ユーザ・クリエイテッド・コンテンツは今後増えていくかも」といったのんびりした観測のそのまた「先」に行っている感がある。


補足。
前出のライヴを体感することの主張の中心は、寧ろ後半部分にある:

話は変わるけど。最近、日本のアーティストのライヴにマナーの変なヤツらが来るんやわ、って聞いたんやけど。その人たちは想像力・感受性の極めて低いやつらで、こいつらが困るのは、想像力が低いから、他のお客さんがどれだけライヴの時間を貴重に思っているか分からないんよなあ。
そんなファンをもつアーティストは、ファンたちにゆっくりと時代から離されていって、ファンの世代交代も少なくなって、ある世代の愛玩物になることが多いのは、皆さんもご存知だと思うのですが。好きなアーティストに、常に最前線に居てもらいたいなら、新しいファンでもすんなりそこに居れるような空気を作ったらいいのに。自分がよけりゃいい、だけでは、貴重なライヴの場が死にますよ。
そして最後に、アーティストを殺しますよ。

グサリと来ますね、この見事な指摘。
つくづく、受け手の感受性に基づく審美性というか、健全な批判精神に立脚したアーティストへの愛、というか、が大切だという、至極真っ当な主張である訳です。「アート」は造る側と享受する側の共同体験にのみ宿りうる、という主張と、まあ、根幹は同じです。


となると、「鈍いオーディエンスがいっぱい」という状況からは「良い音楽」は生まれないのか?という根源的疑問に行き当たり、俺は途方に暮れてしまう。でも、努力は止めない。審美眼を持ったオーディエンスでは最低でもありたいよね。
表現者の端くれとしても。


この項、続く(かも)。