souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

電気羊の夢

CNETのelectric sheepに関する記事PCの余剰処理能力と双方向性が作る芸術作品を読んで、分散コンピューティングの概念がちょっと変わって見えた。
正確に言うと、概念が変わったのではないな。変わったのはアプローチの方だった。それも劇的に変化した、と言っていい。流行の言葉で言えば、Web 2.0的な変化である。


「分散コンピューティング」と言えば、これまで、地球外生命体の探索、数学的難問の証明、遺伝病治療のための遺伝子解析、癌治療薬開発のための分子解析などなど、極めて学術的でマジメで虱潰し課題解決的なテーマへの「処理能力向上」手段のアプローチであった。う〜ん、高邁で退屈だこと。あ、こりゃ失礼。

このelectric sheep、特徴を際立たせているのは、「芸術」と「双方向性」の2点である。


芸術。
それは人間にだけ許された高度な「遊び」の総称である。
遊び。要するに「無駄」なもの。
無くても取り敢えずの肉体的「生存」は危機に晒されない無駄なもの。しかし精神の健康のためには不可欠とも言えるもの。
同時に、高邁な学術的アプローチの対極にある「不真面目さ」と「無目的さ」*1

そして、双方向性。
ワタシは「利用者」で、アナタは「資源提供者」という、硬直した関係性でない柔軟さ。関係が相対化した「いい加減な世界」。つまり利用者であり同時に提供者であるサイバーコミュニティ的「対等」な関係。


そして、ネーミングが最高じゃないか。
electric sheep!
ディックも墓場で喜んでいるだろう。

*1:しかし元来、学術と遊びは単純な対立軸ではなかったはずだ。寧ろ学術には遊び的要素が多分にあった。古代ギリシアで「余暇、レジャー=個人が自由にまた主体的に使うことを許された時間」を意味する「スコレー」と、「スクール(英:school)/スカラー(ラテン語:scholer)=学校」の語源が同じということも、よく知られている事実だ。その文脈で言えば、本来の意味での学術への復権の鍵は、一見無駄だが実は大切な遊びにこそあるとの暴論も成立すると思われる。この項、何れ考察することにしよう。