souxouquit’s blog

オヤジロッカー souxouquit の蹴音映書網業泉食考♪

ホモ・サピエンスってのは「考える人」の意だけど

こんなことを書くと、少々大仰なのだけれど。


俺の人生観でずっと一貫していることだ。
人間の価値は考えた量に比例するのではないのか、ということ。
ホモ・サピエンスってのは「考える人」の意なのだから、考えなければヒトぢゃない!というのも、あながち乱暴な議論でもない。


子供に「アタマは何のためについているの?考えるためでしょ」と言い続けて育てたり。
「サッカーは、馬鹿にはできないスポーツなんだよな」と主張したり。
自分の窮地には「落ち着け、そして考えろ、考えろ」と言い聞かせたり。
自分のような、飛びぬけた能力を何も持っていない人間が、人から認められ、友達になってもらい、微力ながら恩返しができる喜びを感じる、その心の源泉は、まさにここにある。


でもね、「アタマの良いヤツはいいよね、考えられるから」とのたまう人々も多い。
若干のヤッカミを込め、また、他人事を語る語り口で。
しかしこれは、誠に本末転倒な議論、というか、俺に言わせれば「詭弁」に過ぎない。

アタマが良い → 考えることができる

という論理は、確かに、極く狭い観点では一理あるのだが、俺が言いたいのはそういうことではない。問題にしたいのは、果たして

考えることができるのはアタマが良い人の特権

なのか? マジ? 本当に? ということである。
だとしたら、

アタマが悪い → 考えなくてもいい

とでもいうのか?
ことの本質は、逆。つまり

考えることを習慣にしている → 結果としてアタマも良くなる → 考える質が深まる → ・・・

という循環、正のフィードバック作用なのではないか。


考えない人に接すると、ぐったり疲労困憊である。
おまけに、考えない人たちにかな〜り普遍的に共通しているのが、プライドが高いこと、と、感受性がニブいこと。あと、物知りで、知っていることに満足して考えないこと。
こうなるうと、考えないことの正統性を脅かす要因を注意深く排除するシステムが完成しまくっているので、絶望的に改善の糸口が見つからない。
精神の四重苦による社会的脳死状態、と俺は思っております。


習慣づけによって誰にでも獲得できる能力を、自ら放棄している人の、手の込んだ言い訳に付き合っている暇はない。